裸足

芸術の追求

小説『溶接』

小説『溶接』

 

 

 太陽に仰げば影落とす自分が下に居るのは自明の理で、しかし宇宙旅行を志してまで熱球を越えてみようとは思わない。何時に身近にもたくさんある。自分が照らされている、または包まれたり認められたりしている、被覆の立場を用意してくれる対する存在。美衣子はしきりに影の濃さが、足裏をくすぐってくるような感覚をおぼえる。それはひとりの女に対して。

 笑い種の寿命は短い。水も養分も敬意も与えられないその雑草は突然に生えるが、すぐに枯れる。土曜日の夜にディスカウントショップに行くと露子が言って、どうして?なんて形式くさい質問を、まだ関係性の幼い美衣子がしても口元を歪めるような真似はしなかった。深い安堵に溺れかけた。ディスカウントショップは、治安が悪くて、土曜日もまた治安が悪い、と。金曜午後の教室の窓に、土曜日の夜のディスカウントショップを見ている様子だった。それだけで十分だった。なぜならその日から一週間は、どんな枠内の宣伝広告を見ても心に残らずただ自分もディスカウントショップに行きたいと考え続けていたのだから。

 生えても枯れていくことをよく熟知している露子は、聴こえてくる踏切の警音も幼児の泣き声もクラスメイトのそれもお気に入りのジャズも曖昧な微笑にて迎えた。時折り肩や背に貧相な指先が触れることもあった。美衣子は見かけるたび唇を歯裏で撫でた。執着心はいつもリップクリームのほのかなローズが収めてくれた。

 そして何もかも過ぎ去った日曜日。問題のない日曜日。死にたくなるほどにそんな毎日を繰り返しているが、実際には一ヶ月で平均4回しか日曜日はないらしい。目を開けると露子の黒い髪が、今日の天気の悪さを語っていた。制服を普段は着ないのに、アイロンをきちんとかけているワイシャツ。スカァト。足の裏。曲線に少しだけ見えるネイル。

 寝たふりをしたかったけど、呼吸が乱れて観念した。思考を埋め尽くす妄想は叶わない、けれどいつか願った幸福は叶っている。早く未発達な段階にしか無いらしい頭の悪い天秤が壊れたらいいのに、それを修復されてしまう。たとえば、手を握るなどして。

 露子に、どうしてうちに?なんて聞かない。この女にとって規則や道理は巣を塞がれたアリの行く先くらい意義を成さない。でも何か言わなければ、たちまち喉がただれ溶けていきそうだから。美衣子はやはり唇を歯裏で撫でて、冷たすぎる指に収められた。何をかは。

 

「アタシは男かね」

 

 弱々しく首を振るった美衣子が、そのまま露子のまなこに閉じ込められる。ぼくがそこにいるの、ねぇ?あまりに他人行儀な台詞が口から出そうになって、美衣子はまた歯裏で、今度は強く噛んだ。ややしても指の感触はない。リップクリームはリュックの中で、今日は日曜日だから昼過ぎの起床さえ許されていたはずだった。露子のまぶたを雑に縫うしめった睫毛が揃って言う。何をかは。

 窓から入ってきたの、と美衣子が声を絞り出しても、13時の報せが無機質に答えるだけだった。怒りが湧いた。ほんの数秒だけで、後はただただ泣きたくなった。ため息を繰り返している土曜日に来ないくせに、明日からまたクラスメイトでいるくせに、昨日の夜何を買ったかも、誰といたのかも教えないくせに。

 正面からまっすぐに露子を見つめたのは、初めてだった。唇が乾いていた。顎の下には小さなにきびがあって、美衣子の影に染まっている。そしてきっと、想いを知ってる。

 

「ね、ぼくをそこから、出してよ」

 

 かぶさる今日が、土曜日だったら良かったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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小説『呪い』

小説『呪い』

 

 

 地鳴りは黎明の朧に昇華し、幾度も薄霞の光を叩いた。意識の中、しかも深淵たる耳の奥から醒まされたのは記憶にあるだけで形としてのおぼえはなく、まばたきをした直後である様にしっかりとまなこの縁を浮き上がらせた。起床。時計は五時と六分、視線をすべらせ口髭に休息しているまばゆさを眺める。人はきっと、早々に進化を遂げない。

 もう一度、胸のそばまで潜りたかった。だが、地鳴りではなく、いつかどこかで聴いた特有の亀裂音である。ずっと、おそらくそう遠くない場所で、今もまだ続いている。

 スリッパをつっかけて、軽い背伸びをし、出窓に置いてある水を飲み干す。振り向けば弥一は肩から寝返りを打とうとして、しかし気づいたか、飛び上がる。

 

「何?」

「さあ…」

 

 ミネは小首をかしげ、困惑に思考を委ねている弥一の顔をまじまじと見た。まだ太陽もにじまない時間に二人に物理的距離がある。ミネはこの状況ばかり緊張感を愛していて、互い、久々に生きている気持ちがした。

 先に行けば後に付く。窓を開ければなにかなんて、とうに知っている。故に階段を降りて洗面に向い、いつもより多く水を流した。跳ね上がる飛沫は透けた色ほかわずかに土の濁りがあり、そろそろ此処も寿命かと考えがよぎる。外を想像すればたちまち洗面は無音になり、やはり、あの亀裂音は衰えない。

 ミネはタオルで顔を拭いて、キッチンに立った。ガラス・ボウルに卵が二個。シンクの水切り皿に洗ったレタスとトマト。冷蔵庫を開けて電気がつくことを確認し、それしかないベーコンのパウチに手を伸ばす。いささか冷えすぎて脂が固まっている。

 湯を作るから、弥一が電気ケトルいっぱいに水を溜めた。そのまま壁沿いの大きい書棚から絵本を引っ張り出して、無言で見つめるのが習慣となっている。尋ねられた時は視線を上げずに、唯一理解ができるから、と言った。しかし今朝に限っては、ミネに好奇心を向ける。まるで姿が変わってしまったかのような興味で。

 だが、二人に特別な変化はないのだ。

 

「さすがにここは、途切れる」

「そうね、それに今から油跳ねるし」

「何だろう?」

「わかんないよ」

「懐かしいね」

「何が?」

 

 わかりきってることを、わかりたくないと思うことさえ懐古に近い感覚になる。ボトルの油を最後まで落とし切って、余裕を保てるはずだったから、弥一へ微笑んだ。だが都合の悪いタイミングで、その瞬間、今日の太陽は心の底から愛している瞳に澄んだ輝きを入れた。逸らす理由はあまりに不自然で、それに割った卵に殻の破片が落ちて、ミネはいよいよやり切れない気持ちが具現化された気がした。点火。

 弾ける。脂も三枚のベーコンも。まぶたを閉じて馳せるのはたびたびの思い出、余った一枚にしばらく箸が交錯して、結局しびれをきらした方が均等に半分にする。呼吸よりも簡単な朝食作り。たとえどれだけ火力を上げたとしても、亀裂音は止まないだろう。なぜならもう、逃れようのない現実だから。

 ミネは平皿にベーコンと、目玉焼きと、水気を絞った野菜をすべてのせて、弥一の座るテーブルに置いた。少し集中している間に、温かいお茶が淹れられていた。

 

「やっちゃん」

 

 ミネはいつもより深く腰掛けて、下を見ながら呟いた。弥一はミネと会話の続きをしたかったが、言葉も呼吸も飲み込んで、ん、とだけ言った。

 

「お茶、ありがとう」

「うん」

「あのさ」

 

 かつて茶葉入れだったと思われる、錆びた筒にさした割り箸を取る。その隣に色鮮やかな絵本はなく、テーブル・クロスの角が破れていると今更気がついた。弥一がいつも読んでいる、どんな言語で文字が書かれているかもわからない絵本が、隠していたのだ。

 日常の範囲を超えた部分だけが、どんどん朽ちていっている。確かにこの家を建てた人たちがいて、確かにこの家で暮らしていた人たちがいた。このクロスにどんな意図が込められて、テーブルを守る役割を与えられたのかなんて、考えるはずもなく。

 目を合わせれば、弥一は変わらない。ミネが心に留めると決めたいつかから、きっと、何も変わっていない。きらめく瞳の奥に映る自分もまた、そうに違いない。

 亀裂音はややあって、若干の疲弊を感じさせた。ゆっくりと深呼吸をひとつして、ミネは初めて理解した想いを、食後のデザートにでも語ろうと決めた。

 

「これからも、あなただけを、永遠に愛してるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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小説『星』

小説『星』

 

一歳ひととせ

 

 

 地球が自転を終えるまでの、その日のうちで、比類なきまでの大声を出した。号哭であった。大地を轟かせ、空を圧倒し、ひとつの超新星爆発が起こったと明記しても、さながら過言ではないくらいに。獣かというよりも、人間の感情がとぐろを巻いていた。怒気の波紋がどこまでも伝わって、またたく間に周って、ぶつかり合えば、一粒の涙。巨大な画板の前でうずくまり、左手に赤のペイントが付いた絵筆を握りしめながら、彼は泣いた。

 三分の期待。それは、何物にも変え難い幸福の詰まった坩堝。言語不要のめまぐるしい夢の中で、彼はまぶたを縛った目隠しに触れては鼻息を荒くした。上等な革靴が古い屋敷の床板をギシギシと鳴らして、画板まではドアから十歩もない。全て計算を尽くしてきた、全てはこの日のためにあった。しかし目の前に置かれた最高に美しい真実の開扉だけは、どれだけ想像を膨らませても用意できるものではなかった。彼は十歩めにつま先を揃えて、長い深呼吸をした。そして、昂る気持ちを均し静めると、震える手で最後に目隠しを弄び、ゆっくりと掴んだのだった。

 一歳の信念。それは、生み落としてきた追随と繰り返した己への反駁を磨き上げて尖らせた矛。色褪せた嗚咽の感覚を、つまびらかに思い出しては笑ったり、悲しくなったりした。ペイントの彩りには特別に気を遣った、単調にならないように意匠を凝らした。それから、日々つまらないと感じることがないように、画板に描く前と後の精神統一にはいっそう力を入れた。

 五年の苦痛。それは、懊悩から逃れるのではなく、懊悩を抱えて生きていくと決めた覚悟。ペイントの独学と射光の修行から、時の悪魔の天誅に歯を食いしばって逆らい続けた。呼吸を乱しながら、ようやく絵筆が友だちとなってくれた頃、悪魔はいなくなったが孤独の潮騒はやまない。脚を挫いて、立てない日があった。片目が腫れて生活もままならない日があった。屋敷を訪ねた女に焦がれ、放り投げそうになった日があった。彼はそんな夜を毎日過ごした。それでもたった数秒、描いた後には吐きそうなほどの苦しみを忘却の彼方に投擲した。乾いた声ではあったが、彼は確かに幸せに笑った。

 

「なんと、なんという不気味な物体!」

 

 そうして今、彼に対峙するは、混沌とした禍々しい色合いの塊の、絵。

 幾星霜を経て、ずっと、美しい星を描いていた。日が沈んでから眠りにつくまでに、天井の低い小さな部屋に置かれた画板に、目を閉じて、たっぷりペイントをつけた絵筆を一度だけすべらせる。それが、いつか想像すら許されないような、輝く星となることを。彼は、屋敷を訪ねた女に語った。挫いた脚を診にきた医者に語った。朝に目覚めると羽根をばたつかせている鳥にも、蝶にも蛙にも。彼の流暢な話に、耳を傾けたものはいなかった。それでも彼は、少しも疑ったことはなかった。考えたことすら、なかった。

 煌々とつく電球の明かりに照らされて、その不気味と称され、題された絵は、いつまでも彼に影を落としている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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単語読み解説

 

号哭ごうこく/泣き叫ぶこと

坩堝るつぼ

開扉かいひ

昂るたかぶる

反駁はんばく/反論すること

ほこ

嗚咽おえつ

意匠を凝らす面白く工夫する

懊悩おうのう

天誅…てんちゅう/拷問

投擲とうてき

幾星霜いくせいそう

煌々こうこう