小説『呪い』
地鳴りは黎明の朧に昇華し、幾度も薄霞の光を叩いた。意識の中、しかも深淵たる耳の奥から醒まされたのは記憶にあるだけで形としてのおぼえはなく、まばたきをした直後である様にしっかりとまなこの縁を浮き上がらせた。起床。時計は五時と六分、視線をすべらせ口髭に休息しているまばゆさを眺める。人はきっと、早々に進化を遂げない。
もう一度、胸のそばまで潜りたかった。だが、地鳴りではなく、いつかどこかで聴いた特有の亀裂音である。ずっと、おそらくそう遠くない場所で、今もまだ続いている。
スリッパをつっかけて、軽い背伸びをし、出窓に置いてある水を飲み干す。振り向けば弥一は肩から寝返りを打とうとして、しかし気づいたか、飛び上がる。
「何?」
「さあ…」
ミネは小首をかしげ、困惑に思考を委ねている弥一の顔をまじまじと見た。まだ太陽もにじまない時間に二人に物理的距離がある。ミネはこの状況ばかり緊張感を愛していて、互い、久々に生きている気持ちがした。
先に行けば後に付く。窓を開ければなにかなんて、とうに知っている。故に階段を降りて洗面に向い、いつもより多く水を流した。跳ね上がる飛沫は透けた色ほかわずかに土の濁りがあり、そろそろ此処も寿命かと考えがよぎる。外を想像すればたちまち洗面は無音になり、やはり、あの亀裂音は衰えない。
ミネはタオルで顔を拭いて、キッチンに立った。ガラス・ボウルに卵が二個。シンクの水切り皿に洗ったレタスとトマト。冷蔵庫を開けて電気がつくことを確認し、それしかないベーコンのパウチに手を伸ばす。いささか冷えすぎて脂が固まっている。
湯を作るから、弥一が電気ケトルいっぱいに水を溜めた。そのまま壁沿いの大きい書棚から絵本を引っ張り出して、無言で見つめるのが習慣となっている。尋ねられた時は視線を上げずに、唯一理解ができるから、と言った。しかし今朝に限っては、ミネに好奇心を向ける。まるで姿が変わってしまったかのような興味で。
だが、二人に特別な変化はないのだ。
「さすがにここは、途切れる」
「そうね、それに今から油跳ねるし」
「何だろう?」
「わかんないよ」
「懐かしいね」
「何が?」
わかりきってることを、わかりたくないと思うことさえ懐古に近い感覚になる。ボトルの油を最後まで落とし切って、余裕を保てるはずだったから、弥一へ微笑んだ。だが都合の悪いタイミングで、その瞬間、今日の太陽は心の底から愛している瞳に澄んだ輝きを入れた。逸らす理由はあまりに不自然で、それに割った卵に殻の破片が落ちて、ミネはいよいよやり切れない気持ちが具現化された気がした。点火。
弾ける。脂も三枚のベーコンも。まぶたを閉じて馳せるのはたびたびの思い出、余った一枚にしばらく箸が交錯して、結局しびれをきらした方が均等に半分にする。呼吸よりも簡単な朝食作り。たとえどれだけ火力を上げたとしても、亀裂音は止まないだろう。なぜならもう、逃れようのない現実だから。
ミネは平皿にベーコンと、目玉焼きと、水気を絞った野菜をすべてのせて、弥一の座るテーブルに置いた。少し集中している間に、温かいお茶が淹れられていた。
「やっちゃん」
ミネはいつもより深く腰掛けて、下を見ながら呟いた。弥一はミネと会話の続きをしたかったが、言葉も呼吸も飲み込んで、ん、とだけ言った。
「お茶、ありがとう」
「うん」
「あのさ」
かつて茶葉入れだったと思われる、錆びた筒にさした割り箸を取る。その隣に色鮮やかな絵本はなく、テーブル・クロスの角が破れていると今更気がついた。弥一がいつも読んでいる、どんな言語で文字が書かれているかもわからない絵本が、隠していたのだ。
日常の範囲を超えた部分だけが、どんどん朽ちていっている。確かにこの家を建てた人たちがいて、確かにこの家で暮らしていた人たちがいた。このクロスにどんな意図が込められて、テーブルを守る役割を与えられたのかなんて、考えるはずもなく。
目を合わせれば、弥一は変わらない。ミネが心に留めると決めたいつかから、きっと、何も変わっていない。きらめく瞳の奥に映る自分もまた、そうに違いない。
亀裂音はややあって、若干の疲弊を感じさせた。ゆっくりと深呼吸をひとつして、ミネは初めて理解した想いを、食後のデザートにでも語ろうと決めた。
「これからも、あなただけを、永遠に愛してるよ」
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